2025.11.17
昨令和五年は、田中智學先生の三男、里見岸雄先生が昭和四十九年に示寂してから満五十年の節目にあたった。
四月十八日のご命日に宗教法人立正教団本部講堂において厳粛な報恩法要が執り行われ、式長(寺院法要でいう導師)の河本学嗣郎立正教団理事長より奏白文が読み上げられた。
この奏白において、河本理事長は里見先生示寂後の門下の活動に詳しくふれ、里見先生に言上した。その活動経過報告は、田中智學先生門下統一への道程と言ってよいものであった。
昭和五十二年に入り、田中智學先生門下結集の必要性が認められだし、その実現に着手した。当時、国柱会の会長であった田中香浦先生の理解と協力のもと、国柱会、日本国体学会(立正教団)、立憲養正会、日蓮教学研究会から派遣された青年メンバーが集まった。そして、同年五月五日、身延の日蓮聖人御廟前において、田中智學門下青年協議会(略称・門青協)を結成した。
この協議会結成のそもそもの契機は、雑誌「日本の展望」で、左翼の理論家として有名であつた太田龍と相澤宏明とで対談したことにある。対談後に田中智學門下の現状に話が及び「智學門下は消滅し、創価学会へつながった」との太田の発言があり、その誤解を解くためであった。智學門下消滅というような誤解を、太田ともあろう人がしていたのかと一驚し、ただちに門下協議会結成のための企画作成にとりかかった。
結成にいたる苦労談は多い。各団体間で対立する主張および見解、なかでも現行日本国憲法に対し、里見憲法学からみた「憲法改正」の立場をとる国体学会(立正教団)と、「憲法破棄・主権奉還」を主張してやまない立憲養正会をいかに融解・統一すべきか、大いに談じ且つ研究に励んだ。
こうした憲法論に対し、提出された考え方は、心情においては破棄、手続きにおいては改正であった。今上天皇の御名御璽がある以上、臣下が破棄することは許されない、あれこれ論ずるのはあくまでも理屈の世界を出ず、心情論と手続論として対立の解消を図り、両者を統一に導いた。活発な議論の積み重ねで、強硬な理論の対立は幾分緩和され、異論の強調より共通の課題解決を優先させるとの方向が定着することとなった。
門青協の初期のメンバーは、国柱会から秋場善弥、立正教団から河本学嗣郎、立憲養正会から久保正業、日蓮教学研究会から相澤宏明であった。この四名が設立委員となり、初代委員長は河本学嗣郎が就任しスタートすることとなった。
その後、智學先生門下の多くの青年が結集した。会合のたびに全員口角泡を飛ばし、青き議論を重ね懇親を深めた。その成果は機関誌「アンガジェ」(後の「宣正」)に残されている。覇気に満ちた青年同志たちを懐かしく思うが、秋場善弥、江口和敏、野呂峰昭、久保正業、吉川新八郎、北見延慶、駒井達生、板東義宣、笹井大庸、笹井宏次朗、中藤政文、中藤健三、小川力の各氏ら、すでに鬼籍に入ったメンバーも多い。
門青協結成後、五年が経過し、やがて、昭和五十六年の日蓮聖祖七〇〇年遠忌をまぢかに控える時期に至った。この大佳節をいかにお迎えすべきが門青協の最大テーマに位置づけられた。智學先生が主導された六五〇年遠忌当時をお手本にし、苦心の末、日蓮聖人門下連合会の主催という形をとり、翌昭和五十七年四月、五〇〇名の日蓮門下各派所属の青年を結集し「日蓮聖人門下青年の船~701年の旅立ち」を実施することに成功した。
この企画運営には智學先生門下一丸となり取り組んだ。涙ぐましい努力が注がれた。終了後、青年の船を運営した委員が中心となり、日蓮聖人門下連合会機関紙「門連だより」を創刊した。今も日蓮門下各派各団体から派遣された委員により編集委員会が組織され、門連の連絡紙として発行を続けている。
平成九年は門青協結成二十周年の節目であった。この年に二十年記念事業委員会ができ、翌十年には記念事業として『戦後の田中智學論を糾す』を刊行した。本書では、的はずれな戦後の田中智學論を徹底批判した。いま読み返してみても、有意義な出版と自信を深めている。
平成十四年にお迎えした日蓮聖人開宗七五○年報恩記念事業は、門青協の後身「田中智學門下懇話会」が中心になり結成された「日蓮聖人門下ネットワーク」が主催、見事成功をおさめ、智學先生門下の存在を世に示し得た。
総事業費一一、一五〇、四七九円をかけ、序分(『日蓮聖人とはいかなる人か』刊行)・正宗分(四月二十八日、全国紙への意見広告の掲出、ホームページの開設、中央宣伝の実施)・流通分(地方全国宣伝、全国各地での講演会開催、成満式)など智學先生門下のあらん限りの勢力を結集し、述べ参加人数二〇〇名の宣伝員を動員し奉行した(この事業については日蓮聖人門下ネットワーク編「日蓮聖人開宗七五〇奉祝の記録」に詳しい)。
昭和天皇の崩御により制定された四月二十九日祝日「みどりの日」を、本来の意味を示す「昭和の日」に改めるべきとする活動は、門青協の発起によるものである。実行にあたっては国民有志を募り幅広い国民運動に昇華させ、平成十七年五月、苦闘十三年の末、法律改正を実現させた。
現在進行形の十一月三日「明治の日」実現へむけても、同憂の士の協力も仰ぎ、今も苦心を重ね奮闘を続けている。「昭和の日」「明治の日」ともに、智學先生の提唱と活動により実現した「明治節」制定の運動に倣っているのは言うまでもない。
門青協は河本学嗣郎初代委員長、相澤宏明二代委員長、小川力三代委員長、秋場善弥四代委員長と続き、平成四年から本格的に始まる「昭和の日」制定運動に備え、前年に陣容の一新がはかられ、第五代委員長には立憲養正会の藤田孝一が就任した。
ときあたかも平成三年は門青協結成満十五年の節目に当たり、身延の祖廟に参拝し、「十五周年奉告文」が秋場委員長から読み上げられた。そのなかに
吾等、田中智學門下青年協議会は十五周年を迎え師命を奉じ先師の使命を継承して新たなる誓いをかため純正日蓮主義・日本国体学を研究実践し正法正義の普及拡大に励み法国冥合・四海帰妙の大願を成就せんとす
とある。
この奉告文中にある「師命」とは田中智學先生の遺命であり、「先師」とは、田中芳谷、山川智應、里見岸雄、田中澤二先生などをさし、国柱会の継承、あるいは諸事情で国柱会から分派し、発展を図った方々のことである。
このようにして門下全体の統一、法国冥合・四海帰命の誓願を持ち、行動に打って出たことは、間違いなく門下の歴史に刻印されていると信ずる。しかし、完成という点では、はたしていかがであろうか、未だしと言わねばならない。未完成、未成就なのだ。誓願行の道半ばと断ずる必要がある。
そこで、里見岸雄先生の五十回忌法要を済ませ約一カ月が経過した六月一日、国柱会信行員の相澤宏明から以下の「意見具申」が関係各位に提出された。
田中智學先生門下の今後に関する意見具申
合掌
田中智學先生が大寂せられてから八十有余年、大東亜戦争敗北に伴う占領や経済成長を契機として社会の世俗化は大きく進みました。とともに、それを背景として、世情は大きく変化しました。そうした中で、日蓮主義および国体主義を奉ずる門下諸団体は智學先生の教えを護り広めることに力を尽くし、その活動は一定の成果を上げましたが、限界を迎えつつあることも認めなければなりません。
こうした危機的状況に対し、各団体単独で対応することは困難であり、智學先生門下諸団体が総力を結集する必要があると信じます。これら諸団体が設立された背景には諸々の事情があるものの、智學先生の掲げられた日蓮主義および国体主義を共に奉ずるものであり、これを機に大同団結に向けた一歩を踏み出すべきと愚考し、以下のような指針で事に当たるべきではと意見具申いたします。
つきましては、貴団体内部の意見集約を進め、可及的速やかに結論を得ていただきたく御願い申し上げます
再拝
一、国柱会傘下の真世界文化研究院(かつて真世界運動を展開した折、田中香浦先生が設立されたと記憶)と、立正教団傘下の里見日本文化学研究所を母体とする共同研究機関を設立し、その本部を国柱会に置く。
二、この研究機関は、両宗教法人が資金を拠出する形で任意団体として設立し、軌道に乗った段階で一般社団法人に移行する。
三、両団体より推挙された者が中心となり、研究会や研修会などを実施する。
四、その成果を対外的に発信すべく、ウェブサイトを設け、機関誌を刊行する。該機関誌は両宗教法人の機関誌に準ずるものとし、関連の発行物については諸事情に合わせて判断する。
令和五年六月一日 相澤宏明
この意見具申は、時代状況に応じ、まずは研究機関の設置から始めようという穏当な企画である。日蓮主義・国体主義両面に亘り、われらが主張をどしどし出してゆくべきテーマは多い。
法の面では新しくて古い「佐渡始顕本尊」の真偽問題があり、智學門下にとり、その信行の成立、安心の確立、宗旨の確定にまで及ぶテーマに直面している。その他にも社会の世俗化に如何に対応すべきかという大きなテーマもある。
国の面では憲法改正への対応、皇統護持への提案など、これもわが国の根幹にかかわる重要テーマがある。こうしたテーマにつき、この研究機関で結論を得、それを各団体が採用して行こうとするものである。